神聖な存在へ!本来の自分を思い出すヒーリング。川崎市にあるレイキヒーリングスクール、エデンヒーリングスペース。


苦しみのもと 貪瞋痴


貪瞋痴

もしも、今、苦しんでいることに気づいていたら貪瞋痴の三毒を発していないか観察してみます。
貧(とん)とは、むさぼり。目先の欲に溺れ、自分の欲だけのために行動する。
瞋(じん)とは、怒りや憎しみ。
痴(ち)とは、不平不満・グチです。
理想の状態、状況、物、関係性などを欲しがり、手に入らないと怒り、憎しみ、不平不満の愚痴をこぼす。
これら三つは、自己中心的なものの見方から生じます。
(苦しみの中にいるときに、自己中心的とは思えません。善悪の判断により周りの何かに原因を見ようとします。)
日常では、事象を正確に見ていると確信しているから、貪瞋痴の三つが常習的、当たり前のように行われているので気づきにくいです。
貪瞋痴は、低位メンタル体(思考)と低位アストラル体(感情)と肉体(物質界での行動)の働きで、それら三つが一体となった低位パーソナリティの活動です。
苦しみにある時、低位メンタル体は肉体があるから(物質界にいるから)苦しむという幻想を抱きます。肉体は、思考と感情に動かされているので問題となる原因ではありません。ここを理解していないとこの世を去りたいという願望を持ち、去るという間違いを犯してしまいますので注意が必要です。

なぜ、貪瞋痴のような活動をするのかというと、自分について知らないからです。
まず、自分が何者か、自分がどのような存在なのか知らない。
それと低位パーソナリティの欲求と欲しているもの正体を知らないことです。

自分とは

自分とは身体を認識している無形態の存在なのです。身体は、自分そのものではないということです。
身体とは、いくつかの体(肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体、ブッディ、アートマ、モナド)の集合体で、それぞれの体は様々なエネルギーの集合体で、各体は独自の機能、役割を持っています。各体にはエネルギーの取り込み口である、エネルギーセンターがあります。エネルギーセンターは、チャクラとも呼ばれています。各体の機能とエネルギーを扱っている存在が自分ということです。
しかし、低位メンタル体と低位アストラル体、肉体と自分を同一視していると、低位メンタル体→低位アストラル体→エーテル体・肉体という順で、限定された思考パターンで身体が自動操縦され、エネルギーを選択し身体を管理する自分が機能しなくなります。
メンタル体、アストラル体、エーテル体・肉体(肉体は行動を意味します)の集合体をパーソナリティ(人格)と呼びます。利己的な目的,目先の利益のために一部しか機能していない体を低位メンタル体、低位アストラル体といい、自分だけの欲のために存在する者を低位パーソナリティといいます。
低位パーソナリティを例えるなら、スノードームや金魚鉢のようなものです。低位メンタル体は、容器(スノードーム)の中だけが真実で安心できると信じています。スノードームの外の世界は、危険だからそこから出ないように仕向けます。スノードームの外とは、高位アストラル、高位メンタル、ブッディ、アートマ、モナドの世界です。低位パーソナリティのスノードームから出るには、ブッディの機能である「直観(ありのままに観る)」能力が必要となります。直観を働かせるためには、高位アストラル界の慈悲が機能する必要があります。

低位パーソナリティの欲求・幸せ

低位パーソナリティは、スノードームの中で幸せを求めているが、幸せの実体が何か知りません。
幸せとは、個々人の条件付けによって定義された実体のない形態です。
お金があれば、家があれば、子供が居れば、趣味の時間があれば、出世して社会的地位があれば、権力があれば、などの利己的個人的願望が叶った状態を幸せとし、人それぞれが勝手に定義したものです。
しかも、幸せの条件のほとんどは親や周囲の人、メディアなどの情報からの刷り込みによるものです。
その定義を決定づけるものは、損得勘定で個人的に「得すること」、「楽なこと」です。
結婚を幸せと思う人もいれば、結婚を不幸せと思う人もいます。
対象が同じでも各人の考え、願望によって「幸せ」は変化してしまう絶対的な実体がない虚像、幻でしかありません。
「幸せ」という名の姿が無い、見えない枠(仮想の枠)があって、その枠の中に入れるのは個人的願望で、得すること。枠の中が満たされる(結晶化、実現される)と「幸せ」、満たされないと「不幸せ」と相反する二つの極性を行き来し、願望が叶った時は嬉しい、楽しい、心地よいなど感情的な気分を得ているだけです。
幸せという名の仮想の枠は、境界線で世界を分断し、幸せの定義と共に不幸せの定義もされます。
幸せを定義する以上、幸せも不幸せも体験します。
感情的な気分というのも、刹那的なもので消えてしまうので、これもまた幻でしかありません。感情の盛り上がりが消えるとともに幸せも感じなくなり幻のように消え去ります。

「幸せ」は、シャボン玉のようなもので、手にすると壊れて消えます。
シャボン玉の膜が、「幸せ」を意味し願望を投影し七色に輝き魅了する。
シャボン玉の中で、願望を結晶化、実現する。
感情的な満足(喜び)によって、シャボン玉が破壊され幸せが消える。
消滅したからまた、シャボン玉を膨らませる。

「不幸せだから幸せになりたい」「次はもっと幸せに」という感情的な満足を追い求めるカルマゲームとなっています。
高得点を得ることへの執着、幸せを実現するための条件となった対象を所有し維持することに執着し、そこから抜けられなくなるゲーム中毒です。
個人的に得すること(感情的満足)ばかり求める状態が、貪瞋痴の貧(とん)むさぼり、餓鬼です。
つかんだと思ったら消える幻(もともと無い、想像物)、得ることのない苦しみを繰り返します。

幸せが定義による幻であることに気づくと、不幸せも同様に定義でしかない幻なので存在しないことに気づきます。
幸せも不幸せも無いと腑に落ちると、低位パーソナリティのカルマゲームから抜けられます。
低位パーソナリティの幸せへの根本欲求は、損得勘定で得すること楽することである。
幸せが定義であるから、楽も得も定義に過ぎない幻である。
楽も得も、刹那的な感情の満足でしかなく、永遠ではない。ゆえに、幻である。
楽や得を必要以上に欲しがり続けるのが「むさぼり」「強欲」その状態は餓鬼であり、中毒。
むさぼりは、怒り、憎しみ、不平不満、愚痴のもととなる。
貪瞋痴の三毒は身体を蝕み、精神と肉体を壊し、上位の身体、高位アストラル、高位メンタル、ブッディ、アートマ、モナドブッディ、アートマを機能させなくし、他の世界への移行を阻む。
慈悲や智慧、直観が働く上位の身体が機能しないと、低位パーソナリティのスノードームを壊せない。
幸せも、不幸せも幻であるでのを理解できるのは、スノードームの外の世界である。
幸せ(得、楽(怠け))を求めるシャボン玉を作り続ける我欲を捨てねば、スノードームを壊せない。
低位パーソナリティを破壊したかったら、我欲、貪瞋痴に気づき、認め、改め、慈悲や智慧を求め身体を明け渡す。
ドームの中に留まってシャボン玉を作り続け輪廻を繰り返すも、我欲を絶ち低位パーソナリティのドームを壊して外に出るも本人の自由意志である。
低位パーソナリティを超越した世界では、分離がなくなる。事象を見抜く知恵、三つの眼が発達する。
三つの眼が発達すると、感情を満たすために作られた「相反する対をなすもの(想像による定義によって存在し世界を分断するもの)」の幻を見抜きだす。


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